映画「命の食べ方」
映画「命の食べ方」を観てきました。
食の生産の現場、農畜産物の生産の現場のドキュメンタリーで、
養鶏場、養豚場、野菜の大規模農園などの作業の様子を撮影してあるものでした。
映画を観る前は、「命を育む基盤」の一つである「食」の生産の現場を綴ったものなので、
どんな感動をもたらしてくれるのだろう?とわくわくしていましたが、
見た後は「現代の対象生産の現場」の現実を見せつけられた気分になり、
なぜか物悲しい気分になってしまいました。
養鶏場で、機械で次々にニワトリの首を落としていくシーン、
飛行機で畑に農薬を散布していくシーン、効率的作業、それが食の生産の「現実」である現代。
作業中の人々は無表情に、その効率的作業を繰り返している。
一人の従業員が職場で一人で食事をとるシーンがありましたが、
コーヒーを飲み、パンを口に運ぶ、そしてまたコーヒーを飲み、サンドイッチを口に運ぶ…
仕事をしている様子を撮った場面と同じ表情だ…淡淡と効率的な食事をこなししていました。
映画の中で生命の基盤を生みだす食の生産現場は、感情が見えない無機質な生産現場だった。
作業している人たちは、「生きていくために」「食べていくために」効率的に商品を生産し続ける。
それは果たして「効率的」なんだろうか?「大量生産/大量消費」を前提としているなら
「効率的」だと思う。だけど、「命を育む食の現場」としてはどうなんだろう?
このドキュメンタリーの中で働く人々は食の職に携わっていても、自分の食とは切り離されているのだろう。職と食が切り離されていて、彼らが夕食の食卓では、「笑い」という表情があってほしい…
そう願ってしまいました。
職と食が切り離された状態…この原因を生産者だけに押し付けてしまうのは、ちょっと違う気がする。「なんとんとなく」という気持ちから需要を求め、そういう状態を生み出してしまった消費側、
それに答えてしまった供給側、全体の問題。
消費者である自分にできることは、「死んでいくために生まれてきたかわいそうな鶏や豚を食べない」ことではなく、「食べ方」を考えること。
食べる時にバックグラウンドを意識しながら食べる。そしてバックグラウンドが見える食べ物を、
家庭の食卓に増やしていく。
「誰が誰のために生産したものか」「誰に感謝して食事を口にすればいいのか」が、見えやすい食べ物を口にしていくことだと思う。
日本(だけじゃないけど…)の食卓事情が「大量消費/大量生産」の大きなサークルで消費活動がなされていくなではなく、「少量生産/少量消費」(生産者側は顧客である消費者のために生産、食べる側は生産者や生産情報を知っている状態)の小さなサークル(地産地消とか)がいっぱいになればいいな、映画を見た後、そう強く思ってしましました。
時間がある人はぜひ「命の食べ方」を見に行ってください。
熊本の新市街のDENKIKANで上映中です。